私の考える看護とは。

人柄

【はじめに】

私は看護師になって、より自分が看護師に向いているなと感じます。
「看護師」といっても多様な偏差値、多様な出身地、多様な年齢、多様な働き方があります。
一人ひとりが根拠を持って、自分の倫理観を確立しているからこそ
他人の看護観を聴くことは面白いです。さまざまな視点に日々驚きます。

看護師って自らが経済的にも精神的にも自立できる環境であると同時に
社会的にみても昨今の少子高齢 多死社会でより看護師の需要は大きいです。

まだ進路が定まっていなかった高校3年の時、
病院説明会で何よりも初めに「看護は素晴らしいお仕事です」と
当時の看護部長が言いました。
その話は看護はさまざまな「人」を対象にしており
人間の尊厳を考えながら人生の一部に深く関わらせてもらえることが尊いというものでした。
また、看護が発展していくためには
日々実践していることを研究として残すことが必要であると知り
私が想像していた看護師像よりも聡明で価値があると強く印象に残っています。

その人を憧れの人物像とし、看護学科への入学を志し、
その憧れの人物のいる病院に就職することができました。
その人がいなければ看護師にはなっていないと思うので人生の道標です。

日常の忙しい中にいると、ときに、
倫理観を忘れてしまうこともあるでしょう。
一度立ち止まって、かつて感じていた感情を忘れないために、戻れるように
自分自身と本気で向き合ってみるのもいい時間です。
特に学生の時って多感な繊細な時期です。
20代半ばになり、
感じたくてももう感じることのなくなってしまった感情が
なんとなくある気がします。
でもそんな感情って大体は表現し難いものでしょう。

だから学生時代の明文化された所感レポートって価値があると思います。

以下は私が学生時代に記載したレポートの一部です。
真面目で聡明な憧れの看護部長に少しでも近づきたかった気持ちを思い出しました。

【看護倫理とは】

 私は、看護倫理とは医療倫理の4原則を基礎とした「共感」であることであると考える。

 看護学科のいままでの座学でディスカッションや講義を受ける中でも、人の考えは多種多様であることを多く感じてきた。環境を含む共通するものが多ければ考え方は同じになる傾向にあるが、「看護を志す」、「同世代」であっても考え方は大きく異なる。根拠をもって他人の意見を聞くと自分が正しくないと思っていた意見も正しく感じてくることを多く体験した。看護の臨床では胎児から亡くなる、さらにはグリーフケアまで対象である。よって様々な年代の看護師の考える看護倫理となれば、さらに考え方は多様化するであろう。

 看護は病気や怪我の治療だけでなく心に寄り添い医療を提供していくことであるが、倫理観がなければ何が寄り添うことであるのか、それは必要な寄り添いなのか分からなくなってしまう可能性がある。なお、不必要な寄り添いというのは自殺の肯定などを指す。命と向き合う現場で、自己を確立した看護師となるためにも自分なりの看護倫理の解釈は必要である。

 寄り添うということは看護師目線でなく、患者さんから感じるものである。自分が人から寄り添われたと感じるのは自分の味方である、もしくは仲間であると感じたときである。看護師は精神的に病気、怪我と闘うための仲間、味方であると認識してもらう必要がある。また、自分が仲間であると感じた人に対しては、その人の考え方を知りたいと感じることや、その人についてもっと知りたいと感じることは当然である。そしてその人について知ったときさらにその人の存在を大切に思うことができると考える。この過程こそ「共感」である。また共感することは人として尊重することであると考える。

 看護師は専門職であることから共感というのは自分の意見を押し付けることではなくて、その人の話を聞きその人の生き方を受け入れ尊重することが看護倫理につながると感じる。だから、自分の考え方とは180度違ったとしても否定せず受け入れることが寄り添うことであり、個人の尊重であると考える。その際、ただ否定しなければいいというわけではなく、なぜそう考えるのか根拠をもって相手の考え方を知ることで上辺ではなくその人の考え方を受け入れることができる。

 また、「共感」は時に医学的な治療と異なることが正しいとなることも考えられる。それは、「禁飲食であるが、終末期の口渇感から氷の摂取を許可した」等である。一定の治療をした上でQOLの維持向上のために一部の治療を中止する判断も時には必要である。これは共感という倫理観に基づくものであり、医療従事者の考え方や倫理観は異なるため医療従事者全員が納得するとは思わない。しかし、治療するのは患者さんであるし、「QOLを維持向上して生きる」ために治療するという前提を考えれば、その患者さんの考え方での共感が必要であると考える。また患者さんは日々変化する状態によって考え方も変化しうるものであるため、日常的に話し、その変化する状態に対応した共感が必要である。  医療の問題は正解がないこと(考え方が多様であること)が多くの倫理的問題を生み出している。倫理的な問題を解決するためには医療職も患者さんともその家族とも日々、話し合い、相手に「共感」することが看護倫理であると考える。

【研究倫理とは】

 医療の発展は人の命を助けたり、症状を完治、寛解、緩和したりすることが本来の目的である。しかし、研究を突き詰めたいという思いは時に人権を奪う可能性がある。医療の発展のためには臨床研究は避けられない。また、再現性があること、利益だけでなく副作用についてもわからなければ、一般的に利用することができない。そのために既知の情報について研究しないためにも先行研究の分析は必要である。協力していただける患者さんのデータは貴重であり、誰一人として無駄にしていいものはない。最低限内容の説明と人権の保障をしなければならないと考える。臨床実験は正しい説明をし、理解した上で同意がなければ人体実験となってしまう。研究者1人が患者さんに不誠実であると医療の分野全体に不信感を持たれかねない。

 探究心は研究の発展に欠かせないものである。しかし、誰にも他人の人権を侵してまで研究する権利はない。看護師を含む医療従事者は、過去のベルモントレポート(タスキーギ梅毒事件の反省)、ヘルシンキ宣言(IC)、患者の権利宣言、リスボン宣言を知りバイオエシックスを学ぶことで、今後このような患者さんを騙して人体実験まがいのことを絶対しないよう自己の倫理観を確立するべきであると考える。

 また、自己の倫理観が確立していないといけない方向になっても誰も止められなくなってしまう可能性がある。一人一人が自らの倫理観と向き合い正しくない時には互いに声を出せる環境、また患者さんが協力をやめたい時にはいつでもやめられる(言い出せる)雰囲気作りも医学の研究倫理には必要であると考える。

 今日はSNSが発展し、いつでも誰でも情報を発信できる。よって命に関わらなくとも患者さんの個人情報が流出することは社会的に差別や偏見が患者さんにとって不利益になる。自らの身体のことは人に話したくないことや知られたくないことも多いが、研究のためには医療従事者は知る必要がある。拡散力というのは自分が考えているより大きいものであることは常に念頭に置き「自分だけは大丈夫」、「少しなら平気」という根拠のない過信をなくし自分が情報流出の発信源にならないよう細心の注意をして行動することも研究倫理であると考える。

【専門職とは】

 専門職と国語辞典で調べると「①1つの科目や事柄を研究し、詳しい情報を持っている人、②長期の教育訓練を通じて習得される高度の専門的知識・経験を必要とする職位」とある。保健師助産師看護師法では「看護師とは厚生労働大臣の免許を受けて、傷病者若しくはじょく婦に対する療養上の世話又は診療の補助を行うことを業とする者をいう。」、「看護師になろうとする者は、看護師国家試験に合格し、厚生労働大臣の免許を受けなければならない。」とある。よって、①と②に当てはまると言える。特に医療分野は専門職の中でも人の命に関わる専門職であるため、正解がなく倫理的な問題を抱える。よって、過去の医療の過ちや医療ミスについて知り考えることで、同じ過ちを繰り返さないことや自分なりの倫理(看護観)の確立をしていくことが必要であると考える。

【ICとSDMの違いとは】

 インフォームド・コンセントは医学的知識を説明し、納得した上で同意を得る意思決定である。シェアード・ディシジョン・メイキングは患者さんの生活背景を含めてその人にあったものを模索し同意を得る意思決定である。

 医療の長い歴史の中では、パターナリスティックが当然であった時代が長かった。パターナリスティックの中で人体実験が問題となったことからインフォームド・コンセントが出てきたとききちんと説明された上で患者が決めるという「患者の熟知同意」が良いとされた。しかし、「正解がないものを決定すること」は倫理的な問題(考え方)だけではなく生活背景も関わってくることにインフォームド・コンセントの考え方を実践するうちにわかってきたのだと思う。医学は全ての事柄にメリットとデメリットがあり、その個人の生活、考え方によって選択が変わる。日常生活で自分について分析している患者さんは少ないし、考えることに慣れていない。その患者さんの正解を探すために、話し合い、考える手伝いをしながら決めていくことが今求められていると考える。

【ACP=「人生会議」について】

 医療職者が考えて話していても、自分の病気に対して正しく認識できていないことや、あまり深く考えないで伝えた一言が患者さんにとっては「抗がん剤やらない方がいいな」という余命を大きく変える決定につながってしまうことがある。訴訟を起こす人はある意味「完治」、「余命の延長」等、医療に対して絶対的信頼をしている考え方の人であると思う。しかし、人生がどの程度長いのか、どのくらい薬が効くのかは医療従事者にもわからない。つまり、神の領域であり医療の力でもコントロールできないこともあることを理解してもらう必要があると考える。余命や完治にこだわる人、治療を諦めるような選択をする人に対し、その先に何がしたいのか、その理由はなんなのかを考えてもらうことが残された人生を有意義に生きることでACPであると考える。また、今生きている人は死ぬ経験をしたことがなく、少なからず死に対しての不安や恐怖はある。死ぬことは誰にでもあるとわかっていてもその恐怖を誰かに受け止めてもらいたいと感じるのであると思う。だから、ACPは全ての時間に意味を求めるような会議や効率の良い会議にしてはいけないと考える。患者さんが自分の中で整理がつくように負の感情に対しても共感し受け止めながらも前を向けるようにすることがACPであると考える。

『私が医療従事者として臓器移植医療にかかわったらどのような看護を提供したいか』

【臓器移植の現状】

 臓器移植希望登録者数に対して臓器提供件数は圧倒的に少ない。この理由は、本人の意思表示をしている人が少ないことが大きく関わっていると考える。臓器移植について考えている人の中でも臓器移植の意思を表示していない人および意思表示方法が分からない人も多くいると思う。心停止後よりも脳死判定後に提供している人が多いことからも残された決断する人の迷いがあると考える。

【日常的な意見交換の必要性】

 臓器提供の意思表示が少ないことから「もしも自分や身近な人が心肺停止や脳死になったら」ということを深く考えたり他人と意見交換をしたりした経験がないと推測できる。また、以前は「臓器提供したい」という考え方であったけど、経験や知識によって「臓器提供したくない」という意見に変わることも容易に考えられる。よって、日常的に臓器移植について話したり考えたりする必要があると考える。そのためには正しい知識をつけることが大前提である。私は医療従事者として、一般の人向けに臓器移植について考える会等を企画運営したいと考える。臓器移植についてあまり知識がない人には、気軽に正しい知識が入手できたり、質問し疑問を解決できたりする場を作りたい。また臓器移植ドナーカードを持っている人も定期的に更新したり、考えたりする場を作りたい。対象者の知識の差によって内容を変え、有意義なものとなるような会を開くことを継続することで、日本全体の関心が高まり、日頃から自らの命と向き合うことができると思う。これにより、今後増えていく単独世帯の人や親戚と疎遠の人の臓器移植について必要な判断材料にもなり臓器移植件数が増えることや、意思に沿った臓器移植医療が提供できると考える。

【臓器移植医療】

 前述したように、日本は日常的に臓器移植について意思表示をする人が少ない。よって臓器提供をするか否かの選択を迫られることが現実であると思う。私自身、その状況に置かれたことだけでも受け入れきれないのに、臓器移植の話まで考えられないと思う。よって、まずは受け入れることができるように傾聴し感情表出する場が大切であると考える。感情表出するのは信頼して初めてできることであるため、できることなら看護師も受け持ちにするべきである。また、臓器移植をするかしないか選んだとしても決断には迷うと思う。だから、決断したから終わりではなく、決断に対しての気持ちも受け止める必要がある。また、臓器を提供してくれた患者さんに対しては手術を受けた後も一人の人として尊重し、声かけを行うような看護を提供したい。

砂糖萌🐾

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