新人看護師さんおめでとうございます。
入職し、配属先も
明示された頃でしょうか?🌸
看護学生ほど忙しく睡眠時間も
取れないほどの時間はありません。
また、アルバイトの時間もなかなか
取れず金銭面も辛かった人が
多いかと思います。
看護師は経済的にも
自立できる職業であると思います。
(もちろんブラックな
職場も中にはあります)
1年目の頃の看護師に
なっての所感です。
書き留めておくことで、
新人のときの初心を忘れないこと
また、自分自身がも少し
経験を積んで新人教育をするように
なったら活用したいと考えています。
実習での看護のやりがい
実習の時は、
おむつ交換や移乗等
患者さんに関わる機会に
対し手順を確認し、また振り返り
大変ながらも達成感を
味わっていました。
また、受け持ち患者さんは
基本は良くなっていく方
もしくは、終末期であっても
日々の関わりの中で
1人の患者さんと向き合い、
長く時間を割いて関わったり
考えたりすることで自分のやるべき
看護が展開できていた
と感じていました。
晴れて1年目、
看護学生の頃から
「患者さんの理解力に
合わせた説明ができる」
「患者さんが現状を理解し
治療したい気持ちを引き出す」
ような看護師になりたいと
思っていました。
もちろん、手順も勉強し
先輩がみてくれる
ところもあると思いますが
徐々に手書きから
確認のみするように
変化していくと思います。
看護学生の頃は
こんなこと1人でもできる
と焦ったく思っていたかもしれませんが
「自身を持ってから自立して介入」とは
恵まれている環境なのです。
また良くなる患者さんだけではないため
徐々に悪くなっていく方ももちろん
いらっしゃいます。
ジレンマ
逃げたくなるジレンマを感じました。
現在の医療は
パターナリズムではないものの
想像以上に医師依存的でした。
意識レベルが低下した患者さんの中には
未だに家族の強い意向があれば
本人の意向よりも尊重されることが
度々ありました。
さまざまな事情、さまざまな考え方から
仕方のないことと理解できますが
それが医療の4原則に反するため
ジレンマを感じました。
3〜4年間、倫理をしっかり
学習してきた人ほど感じると思います。
偽善者
病に侵される身体では
寝返りを打つのも
大変な患者さんもいます。
身体を動かすたびに痛みを感じさせ、
痰を吸引するたびに苦しさを感じさせ、
抗がん剤でボロボロになった血管に
点滴の針を留置させ痛い思いをさせる。
最初は自分自身が
偽善者なのではないかと
感じることも多かったです。
理由を説明し、同意を得た上での実施ですが
「痛いですね、もう少しです」
「苦しいですね、痰が取れています」
この声かけは患者さんに
対するものなのか
自分への保身なのかわからなくなった
タイミングがありました。
しかし、中途半端にやることは
かえってその機会の頻度を増やします。
最初は正確さ、
その後苦痛の時間を最小限にするよう
努めることが今の私の最適解です。
治療をすることが正しいのか
私は患者さんが良くなること、
もしくは緩和的なことができるため
医療は素晴らしいと思い
医療業界を選びました。
しかし、治療する≠病気が完治する
病気が完治する≠病気前に戻る
をたくさん目の当たりにしました。
治療をしないと余命半年だとしましょう。
抗がん剤治療をすることで
余命が2年に延びるがしれませんが
1.5年入院するとなるとどうでしょう?
治療により体力や臓器の機能も落ち、
下手したら意識レベルも落ちている中での
病棟以外の時間です。
治療してもしなくても
病院以外の時間が半年ならば、
治療を進めることが正義なのか
とても考えさせられました。
また、病気の進行は意外と早いので
1週間も待っていられないことも多いです。
これを診断されてから1〜3日でどんどん
治療が開始されます。
もちろん治療しないと亡くなってしまうため
医療側からすれば治療優先になります。
しかし、治療をしなければもっと
自分らしく生きられたかもしれません。
こればかりは治療を
やってみないと分かりません。
だからこそ、迷います。
家族も本人も、もちろん医療従事者も。
また、自分や家族が治療適応でも
残りの人生についてどうするべきかを
しっかり話し合わないと
後悔することを学びました。
治療断念の選択肢は英断
治療断念の決断を選択肢に入れる医師は
信頼できると強く思います。
家族に対して、
自分が訴訟を起こされることを危惧したら
「最善を尽くしたけど
救えませんでした」
と伝えたくなるものです。
そこで、あえて治療を諦める選択肢を
入れることは患者さんのQOLを
考えている医師である可能性が高いです。
いざとなった時には、現実すぎて
面と向かって話し合えないもの。
何もない時こそ、様々な想定や
「たられば」で話すことができます。
また、看護学生ということは一般の方よりは
医療的な知識が多いと想定されます。
その私たちですら、
「分からない、決めきれない」
ことを知識がない人が
決断することは困難です。
そのために、私たちの根拠のある知識を
患者さんの理解力に合わせて
噛み砕く必要があります。
噛み砕いて説明することは、
知識や伝え方を多く知らないと難しいです
そのために、所感を書く作業や
自分なりにまとめる作業をして
知識を整理するのは大切であると考えます。
ナースコール
実習先でも1度は
ナースコールを取らなかったり
無視するような看護師や病棟を
目にしたことのある方は
多いのではないでしょうか?
そんな姿を見るたびに、
「私が看護師になったら
絶対そんなことしない」
と強い感情を持った
看護学生でした。
また、授業で認知症やせん妄の患者さんに
ユマニチュードを用いて関わることで
自分らしさを取り戻し不穏ではなくなる
という授業を受けていたため
・目線を合わせて
・ゆっくり笑顔で
・必要であれば何度も
・その人の理解力に合わせて説明する
が実践できる看護師を夢みていました。
しかし、
・雑用を頼む人
・自分でできることを頼む人
・その場では解決できない依頼をする人
・何度も同じ依頼をする人
・人を変えて依頼をする人
などナースコール適応でないときに
押されることの多さが現実にありました。
下の売店まで一緒に買い物に行ったり、
雑用をこなしたりできる限りは対応しました。
しかし人間であり1年目であるため
特に忙しく余裕がない時には
意味のないコールに
イラつく日もありました。
でも、そこで真摯に向き合うことが
人間が看護する意味だと自分に
言い聞かせ対応してきました。
命が尽きる前に不穏になる人が多いからです。
データには前触れがなくても。
人生の最期の恐怖や寂しさ、不安からくる
わがままはきいてあげたいと思いました。
近くにいて欲しいという願いがあれば
患者さんのベッドサイドにPCを持っていき
カルテを書いた日もありました。
たとえ、先輩がやっていなかったとしても
それがやりたい看護ならやるべきです。
その姿をみて、その看護を
数年後に後輩が継いでいくならば
より質の高い看護に繋がっていくと考えます。
身体拘束
私は今でも本気で
前述したユマニチュードを実施すれば
身体拘束を最小限にはできると
考えています。
1人の患者さんを守るあまり
他の患者さんへの対応が遅れたり
安全が守られないことはあってはなりません。
また、意識レベルが曖昧な中
自己抜去することは
患者自身の安全が
守られないことにもつながります。
看護師の数も有限なので
きちんと検討した上では
身体拘束もやむを得ないと考えます。
・不穏や脳疾患により指示が理解できない
・認知症により安静度を忘れて守れない
・理解を示す言葉を発するが自己抜去する
など看護学生の頃の想像以上に
インシデントの可能性はあります。
1年目の最初、
「優しさで弱く身体拘束して自己抜去される
くらいなら身体拘束をやらない方がよい」
と先輩に言われました。
身体拘束をするとき、
看護師自身の心が辛くなります。
そのときの優しさで弱く縛ることは
患者、看護師の双方にとってよくありません。
「拘束すると判断したならきちんとやる、
弱くできるくらいなら拘束しない」
新人看護師の優しさが仇となる
可能性があるので心に留めておいてください
エンゼルケア
学生時代、終末期の授業で
「患者さんの亡くなる日は
晴れの日がとても多い。
きっと亡くなる日を選んでいるのね」
と教授に言われました。
実際、晴れの日に亡くなる
体験をすることが多いです。
患者さんの病態が悪くなっていく中、
1年目の9月以降、
晴れの日が怖くなることが増えました。
また、病棟では凛とした態度で
エンゼルケアができても
家に帰ると涙が止まりませんでした。
また、昨日まで生きていた人や
不穏によりナースコールが頻回だった人が
パタリといなくなってしまうことは
どこか穴が塞がらないような
不思議な感覚でした。
この感情は、看護師人生において
徐々に薄くなっていくかもしれませんが
人の死に慣れてしまわぬように
していきたいです。
泣きたいときは泣いて、
懐かしめるようになった頃
患者さんの死をようやく
受け入れられると思います。
私はきっと先輩に対して
患者さんが亡くなったときのことを
何度も話したと思います。
それが看護師が患者さんの死を
受け入れられることに
繋がると思うので間違っても
「よく覚えているね」や
「徐々になれるよ」なんて
言葉はかけたくないです。
受け入れられるために
後輩看護師に対しても「傾聴」を
してくれた先輩方に感謝しています。
理想の看護を実現する意味
私は自分が今している対応が将来、
自分にされる対応であると考えます。
何十年も歳上の人が
「お願いだからお水を一口飲ませて」
と伝えてくる。
私たちも飲ませたくないわけではない。
それが肺炎につながり
さらに苦しくなることを
知っているからこその優しさである。
、、、と医療業界では当然のように語られるが果たしてそうであろうか?
私は医療業界の当然を当然と考えて
実施するのではなくQOLも加味して
看護していきたいです。
しかし、闇雲にQOL向上だけを掲げることは
患者さんの治療機会を奪う可能性があります。
治療とQOLのバランスをとることが
必要であると考えます。
時に、医師にQOL向上のために
根拠を持って交渉する場面もあります。
看護師は
患者さんの意向を叶えていく
きっかけになれる職業です。
国家試験を終えてきっと
看護の信念を強く持っている時期です。
その憧れを実践できる看護師になれるよう
少しずつ自立していけたら良いと思います。
一緒により質の看護を提供できるよう
頑張っていきましょう!
コメント